集組の歴史
創業80年の歴史
集組創業
高村豊、キャンプ富士司令官シュリンプとの出会い

二度の事業失敗を経て、創業者、髙村豊(以降、豊と記す)は進駐軍(キャンプ富士)での仕事を始めます。司令官(キャプテン)付きの『技術顧問』という役職を与えられ、後に大恩人となる、シュリンプ司令官の補佐として重用されました。飛行場建設などで成果をあげ、米兵達とも「トニー」というニックネームで呼ばれ良好な関係を築きます。2年の任期が終わり、キャプテンシュリンプはアメリカに帰国することになりました。そのとき、豊に起業をすすめ、愛用の米車『マーキユリー』を創業資本の一部にと、置き土産にし、さらに創業会社の社名も英語で決め、それを通訳が日本語で『集い』と訳してくれました。生涯忘れることの出来ないキャプテンシュリンプの勧めに従い、当時日本人としては最も優遇された技術顧問の職を辞し退職しました。
集組の創業

昭和26年、司令官の置き土産と名付け親になってくれた『集い』を社名にして、米軍出入りの一人親方で、従業員一人の日本一小さな建設業『集組』が誕生しました。昭和28年には杉崎町に社屋を構えます。 当時米軍基地への出入りの業者は限られており、地方業者が主体でした。多くの会社が規模の大きな工事の受注に注力しており、資本の少ない小規模な我が社は、他社が敬遠する小規模工事を絶え間なく受注する事ができ、予想をはるかに上回る高成績をあげました。
集組の発展
集組の経営

節約をしながらも一所懸命に働けば請負工事を受注できる時代に突入しました。土木出身の豊は強力な助っ人、キャンプ富士在任中の部下であった建築課長を採用。米軍関係の工事受注で成果を上げ、範囲も埼玉県の米軍ジョンソン飛行場まで伸ばしました。 営業範囲の拡張に伴い、東京品川に営業所を持つことになりました。業界では名もない『集組』でしたが、米軍は『TSUDOIGUMI』を誰もがすぐにわかってくれて、シュリンプが付けてくれた社名を一層嬉しく感じました。 「何時も柳の下にドジョウは居ない。決断は早い方がいい」との母の教えを肝に銘じていた豊はある決断をします。東京営業所長に米軍の工事経歴を全部譲り、株式会社ではなく個人経営の『集』に東京営業所長の名、向井の『井』を組み合わせて『集井組』と登録させ、米軍には『TSUDOIGUMI』と同じ読みの登録をさせて独立させ、 集組の沼津本社を官庁工事請負主体に切り替えました。官庁工事においては、『利益より認められる』事が大切と考え、経営方針を信用第一とし、小さい工事から良い仕事をして認められ、大きな仕事も受注できるようにと、経営形態の改善に尽力しました。 直接人材を育て、将来に備えるようにしました。小さな独身寮は活気に満ち、軟式野球チームも出来て和気あいあいの雰囲気は、今では良き思い出の小さな黄金時代でした。昭和39年には杉崎町に新社屋が完成します。
親子3代土木工事業

何時も人に恵まれ支えていただき、高度成長という時代にも恵まれ、少しずつではありますが、実績を伸ばしながら、昭和51年、社屋を杉崎町から岡宮に移転。時は平成5年、豊は会長に。二代目社長に豊の次男、和秀が社長に就任します。 平成26年には和秀の長男、泰佑が入社し親子三代土木工事業に従事することとなりました。時代に翻弄された創業者、髙村豊から親子三代に渡りいつでも人に恵まれ、交流を深め、支えていただいたご恩を受け止め、末永く次の時代も創設していく所存です。
